教育というものは、もともと人の「希望」や「願望」に根ざしたものです。何かを知りたい、学びたい、より良い自分になりたい、より良い明日を築きあげたいという希望があって、はじめて「学ぶ姿勢」というものができあがるのです。
ただ、「教育」のための「メソッド」、つまり方法論というものは音楽や文学と同じで、一度築き上げれば有形の文化財のようなものになりえます。つまり、一度教材を開発してしまえば、それを販売することでいくらでも売り上げを稼ぐことができるのです。さらに、学ぶためのメソッドというものは「腐る」ようなものではありません。一度開発してしまえば、ずっとそのメソッド、カリキュラムで学び続けることができるのです。これはビジネスにおいては超一級の商材です。開発原価さえ償却してしまえば、あとは長く販売すればいいだけということになるのです。
そのような商材、そのようなカリキュラムを数多く揃えれば、後は「営業」することでいくらでも稼ぐことができます。そのようなおいしいハナシであれば、ビジネスとして参入する企業が多いのは当たり前です。そうです。「教育」というのは成功すれば効率の良いビジネスになり得るのです。私たちが日々抱く好奇心、「知りたい」と願う心があり続ける限り、「教育」は売り物になるのです。知りたいという人のニーズ、学びたいという人のニーズがなくならない限り、教育は商売になります。
私たちにとって、本当に自分が知りたいこと、本当に自分が学びたいことであれば、それらに対して費用を支払うのは「当たり前」と感じることです。子どものころ塾に通ったり、何かの習い毎をしたりしたことがある人であれば実感があると思うのですが、それらの「習い事」には月謝が付き物です。「教育」というものは「無償」では受けられないものだということがわかるのではないでしょうか。
そのような大前提を盾に、さまざまな企業が教育を売り物として商売をしています。中には悪質な事業者もいるもので、興味のないカリキュラムを無理やり販売したり、押し売りのような状態で契約させられたりするケースがあります。世の中のさまざまなことは「知っておいた方が良い」ことだらけです。それは「知らないよりは知っておいた方がいいが、知らなくても生きていける」というようなものばかりなのです。
生涯に渡って学習することができる、生涯にわたって知的好奇心を育てることができるのが私たち人間ではあるのですが、ただ「興味のない」こともたくさんあります。世の中のすべてのことをひとりの人間が知ることなどはできないのです。世の中のすべての真理をひとりの人がすべて把握することなど、あるはずがないのです。それほど私たちが探求している知識というものは奥が深いものであり、膨大なのです。
ですから、基本的には「知りたいこと」だけを知ればいいはずなのです。知りたいことだけを学べばいいはずなのです。ですがそんな私たちの興味をひこうと、学んでもらおうとするために世の中の事業者はさまざまな手で営業をしかけて来ます。その中でも有力な手法が「電話」です。どこで仕入れたのかわかりませんが、個人宛てに電話をかけ、くどくどとその教材の必要性を説くのです。ですが、そのような営業に応じる必要はありません。自分が興味を持てないのであれば、無視すればいいのです。