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人によって学びたいこと、興味のあることはまちまちでしょう。どのようなことであっても学ぶために「効率的」とされていることは体系的にまとめられているものです。
どうせ学ぶのであれば「資格」としてカタチに残るものを目指してもいいかもしれません。「資格」とはそれを学んだ証であり、周囲に対してその知識のオーソリティ、専門家であることを証明するものです。知識は目には見えないものですが、その資格を提示することによって「私はその道の専門家、専門的に学んだので安心して欲しい」と示すことにもなります。せっかく学ぶのであれば、その「証明」のようなものを同時に取得することを考えてもいいかもしれません。そのような「資格」を取得するためには「資格」があり、その要件は学んだことがしっかりと身に付いているのか、資格を得るに足る知識が備わっているのかということが問われます。一定ラインの知識を有していなければそれらの資格は得ることができないものですから、「学んだ証」として資格を取得するのはひとつの区切りにもなるでしょう。
基本的に「学ぶ」ということは誰でも可能です。知識を得るための「素」になる教材等があれば、それを使用して新たな知識を得ることができるのです。ですが世の中の「学問」というものはただ暗記すれば良いというわけではなく、得た知識を応用するための「思考力」を問われることもあります。それらの問題はただただ暗記した知識を書き起こせば良いというわけではないのが問題で、得た知識を応用してその問いに対して適切な判断とどのような公式、方程式、法則を当てはめればいいのかということが問われるものです。それは読本から得られるだけの知識では突破することは困難で、やはり問題を解くという「実践力」が伴わなければいけません。
それらを体系的に学べる「教材」というものが必要であり、それらの教材は開発されるためにコストがかかっていて、無償で手に入れるわけにはいきません。勉学のためにかかる費用というものは、それらの「開発コスト」であったり、まとめあげるために費やしたコストを回収したりするものであるのです。学ぶためにかかる費用というものは、それらを学んでもらおうとする人々の取り組みに報いるものです。
どのような勉強、どのような学習においても、なんらかの教材を使用するかぎりそのような費用はかかるのが当たり前で、その金額は内容によってバラバラです。より専門的な知識を必要とする分野では、その学ぶ内容に対して「研究、考証」もなされているはずで、さらにコストが増しているというわけです。それらの知識を含んだ教材の数々それ自体が財産であり、編者にとっては「自身の作品」ともいえるわけです。
学ぶためにはなにか「素」になる教材は必要不可欠です。それらは費用を投じて購入するものであり、それらの費用は内容や分野によって違うのです。ましてや独自で、何かの教室に通うわけではなく、自分自身の空いた時間を利用して何かを学ぼうとするのであれば、用いる「教材」にこそこだわった方がいいのです。学ぶ立場からしてみると、「教材」はバイブルのようなものです。それがなければ得られない知識が山のようにあるからです。