大人になるとさまざまなことを知ります。「知る」ということは、「実際がわかる」ということです。それらの物事の「実際」がわかることで、それらの物事に対して「希望」が失われます。
それはその物事に対して「こうであって欲しい」というような願望があったとしても、そこに対しての「答え」が出てしまうということです。答えが出るということは、それ以上「知る」ということがないということです。自分が想像していたもの、夢想していたものに対して、「真理」は無常にもその姿を現します。それが自分にとって嫌な結果、興味を失うような結果であったとしても、それは「答え」であり、それは変わることのない「真理」、「事実」なのです。それを受けてその物事に対して興味を失っても関係ありません。事実はひとつで、変わりません。
そのようなことの繰り返しで、私たちは成長していくのです。成長することで私たちは大人になります。子どもの頃に夢想した「未来」とは違う「今」を生きています。それでも日々働かなくてはいけないのです。日々何かのために糧を得る必要があるのです。生活を維持するため、生きていくため、現実と向き合う必要があるのです。やがて自分自身の「子ども」を育てるときに気がつくはずです。「自分もこんなにもたくさんのものに興味を持って育ってきたのだろうか」と。
些細なことに対しても全身全霊で興味を注ぐことができるのが子どもです。その先に何があるのか、どのような真理、原理が待っているのかと目を輝かせて、底なしのエネルギーで興味を注ぐのが子どもなのです。それらの「興味」に対して私たちは応えてあげることでその子の興味を「育てる」ことを考えます。子どもが「知りたい」、「触れたい」と考えていること、そのタイミングが「学ぶために最適である」ということはわかるはずです。いつの間にか私たち大人が失ってしまった「興味」、「知りたい」という感情を、子どもたちはずっと持ち続けているのです。私たちにとってそれらはとても大切なものに見えます。今、その「興味」、「姿勢」を得ることができればもとたくさんの物事を、もっと深く知ることができるのではないかと思えるのです。
そのようなことを考えると、私たちは実に「達観」しすぎてはいないでしょうか。「どうせこんなものだ」、「それを知っても何の得もない」そのように考えてしまうことで、私たちはさまざまな「知るための機会」を逃してしまったのではないでしょうか。本当であればもっと学べたはず、もっと知ることができたはずのことを、諦めてしまっていないでしょうか。私たちにとって「興味」が「無償のもの」になっていないのです。損得、効率、時間などのことに気を取られて、「興味を持つ」ことに対してさえ取捨選択しているのではないでしょうか。それでは意味がないのです。それではせっかくの「学べるチャンス」をふいにしてしまっているのです。大切なのは「興味」ですが、その興味に対して自分自身を制限してしまっているようであれば、学べるものも学べないということです。
学ぶために最適な姿勢とは、子どものように興味を持つことです。子どものようにその物事に対して興味を持つことなのです。