この世の中にはさまざまな「不思議」があります。それらの「不思議」、私たちが人間として生きているから不思議なのであって、その他動植物とってみれば「当たり前」のことなのかもしれません。
私たちにとっての「世界」とは、自分たちが知覚できることすべて、またそこにあるということがわかっているもの、あるとわかっていながら未だに解明できていないことも含めて、「世界」です。私たちはそのよう未開の原理、未開の仕組みを考える際にも「世界」を意識し、いつかその謎を解き明かそうと願っているものです。人がそのままでは生きることができない「宇宙」に思いを馳せ、実際に宇宙に人を送り込むことだけでは飽き足らず、頭上に輝く「月」に人を送り込んだり、遠くにしか見えない「火星」に探査機を送り込んだり、私たちの「知りたい」、「自分たちの知識として解明したものを後世に残したい」という気持ちはなくなりません。
ですが、それらはただひとりの人の興味、関心だけではなく、「人類」として、「種」としての探求の歴史であるわけです。どれだけ科学技術が発達しても、どれだけ高度な科学が発達しつづけても、私たちは「人類」としての叡智を探求していることになるのです。ひとりひとりの人の興味、関心が積み重なった結果としての知識、技術ではあるものの、ひとりの人が思い立ってすべてを解明できるわけでは決してありません。今や私たちの抱える知識、抱える叡智のすべては、体系化され、積み重ねられてきたものです。
この世のすべて、私たちが近くできるすべての事象、すべての物事に対してひとりの人がなにもかも知っているというような状況はありえません。それほどまでに私たちが積み重ねてきた「叡智」は膨大で、また奥深く、それぞれの「道」というものが定義されているからです。私たちにとって「知識」とは世界の探求の結果であり、そのプロセスを「研究」と呼んでいます。どのような分野の知識も、文献やインターネットで知り得ることは誰でも調べればわかることです。さらにその先、誰も気が付かなかったところまで深く掘り下げることで、私たちはその膨大なライブラリにさらに追記をしようと考えているのです。
そのような「道」を歩むためには、最先端の科学、知識を得るためには、まずは人類がその分野で歩んできた「積み重ね」を追体験する必要があるのです。それが「学ぶ」ということです。どのようなことがわかっていて、どのようなことがわかっていないのか、どのようなプロセスがあって、現在の知識、常識が成立しているのか、そのようなことをまずは「学ぶ」必要があるのです。それは専門的になればなるほど難易度が上がるものです。ひとつの学問として成立しているようなものほど、奥深いものです。
どれだけ欲張っても、それらの学問をひとつひとつ学んでいくことしかできないのです。そして、世の中の知識は連日書き加えられているものですから、すべての分野のすべての知識に対して軽々しく「すべてを知りたい」と考えたところで到底不可能なのです。私たちが「学ぶ」ということは、人類が歩んだ探求の歴史を追体験するということです。そのことでまずは「知る」こと、「理解する」ことが大切なのです。