何事も続けなければ意味がありません。何かを「はじめる」ということが大切であり、そのはじめたことに対して「続ける」ということはもっと大切です。
何かを学ぶこと、何かを学び続けること、それは自分にとってとても有意義なことであるという「理解」がまず必要です。人間は飽きることがあります。自然の摂理から離れて「生きる」だけでは足りなくなってしまった私たちは、ただ捕食して、ただ交配して、ただ子孫を増やせばいいというわけではないのです。私たちは後世に残る何かを「作りたい」のです。何かを残したいのです。何かを考え、少しでも世の中の真理、世の中の摂理を解き明かしたいのです。それはどのような分野でも同じです。「究極」を考えるものの、自分にとってそれは永遠に辿りつけないことであると、頭のどこかでは知っているのです。
通信教育とはいえ、「学ぶ」ということに変わりはありません。その目的は人それぞれでしょう。ただ知りたいだけ、一歩進んで知ることで何かに活かしたい、何かカタチのある実績としての「資格」を取得したい、そのようなことを考えて、私たちは学ぶことを続けます。大切なのは「目的」です。学び続けるためには、「その先」に何があるのかを考えることが大切なのです。知るだけで良いのか、それともそれを何かに役立てるのか、それとも「資格」として自分のステータス、見える部分でのステータスにするのか、そのような「動機」があってこそ「学ぶ」ということは続けることができるのです。
私たちは社会人になって働くようになってから、「コスト」ということに対して思いを馳せることもあります。自分が使う時間のすべてがコストであると、思い至るようになるのです。そうすると、仕事中だろうがOFFのときであろうが自分がかけている「時間」というものを大切に考えるようになるものです。同じだけの時間があれば、自分は何を考えただろうと、同じだけの時間があれば、自分はどのようなことができただろうと、考えるのです。自分にとって時間が「換金できるもの」と定義できるのであれば、その「学習に費やす時間」に対しても「実際に費やす時間」で「価値」を問うということになるのです。自分にとってその時間はムダなのか、有意義なのか、考えた結果「ムダ」であると結論付けてしまうと、もうその学習を続ける気にはなれません。その時間はもっと他に費やした方が良いということになるのです。
そのように論理立てて考えてしまうと、自分たちにとっての「時間」の価値に見合う学習でなければ続ける意味がないということになり、やめてしまうことにもつながります。ですが、この時に考えたいのは、その学習のために費やす時間ではなく、その学習、その知識の先にある「可能性」なのです。それを学んでいればその先に「何があるか」ということを考えたいのです。学んでいるその時、学習しているそのタイミングではムダに感じるかもしれない学習も、一度覚えてしまえばその先ずっと自分の知識なのです。その先ずっと自分の武器として通用する知識になるのです。そのような「知恵」を簡単に捨ててしまうのは勿体ないということです。簡単にやめてしまうと勿体ないのです。やめた時点で、それまで費やした時間は本当にムダになります。ですが、続けていればいつかはその知識が役に立つ時がくるのではないでしょうか。