何かを「知る」ということ、「学ぶ」ということは、私たちの「頭」を使った労働のようなものです。学ぶために頭をフルに回転させ、私たちはさまざまなことを「インプット」することができます。
「学生」という身分であれば、この「知る」ということ自体は自分自身の責任のような位置づけです。それを知らなければ同輩よりも遅れてしまう。それを理解していなければ成績が悪くなり、両親に叱られてしまう、「知る」こと、「学ぶ」こと、私たちは実に成人するまで、あるいは成人してからも「学ぶ」こと、「知る」ことを続けてきたのです。やがて社会に進出すると、それら体系立てて学んできたさまざまなことがごったがえしています。教科書の目次を調べる間もなく、さまざまなことが立て続けに自分に襲い掛かってくるのです。
体系立てて学べることはある意味では幸せなことです。教科書がある、解説書がある、教えてくれる人がいる、学べる場所、環境があることで、私たちはいくらでも「学ぶ」ことが可能なのです。それらの場所、環境は社会に進出してからも開かれているものもあります。私たちが生きていく上で必要なものの数々、知っていれば便利になることが間違いない知識、突き詰めると「社会でうまく生きていくためのコツ」なども体系化されています。「経営のコツ」などという経営者向けのノウハウも多々あります。どのような立場にいても、どのような知識を得るのだとしても、私たちは最良の環境を整えることができるのです。
ただ、環境やノウハウだけがそこにあってもいけません。大切なことは私たちが「知りたい」と考えることです。「知りたい」という気持ち、それは「興味」ということです。私たちの持つ「興味」は、時には息切れすることもあります。そして学ぶことが当たり前だった「学生時代」には「興味」などという言葉は関係なく、日々勉強の毎日でした。ですが一旦学生生活を終えてしまうと、この「興味」という感覚こそが自分自身が何かを知るために大切なもので、興味という動機こそが頭をその知識に対して最適化する方法であるということがわかるはずです。
興味を持つこと、「知りたい」、「その事柄に対して考えたい」と思うことは、学ぶための、吸収するための、考えるための原動力です。今そこにその分野の知識が体系立てて揃っているのは、先人が同じような「興味」を持ったからです。先人がそのようなことを知りたい、見たい、考えたいと願ったからです。私たちがそれらの事跡をたどりながら学ぶ際、それらの学問を切り開いた先人と同じような感覚で臨むことで、同じような視点、同じような感覚でそれらを学ぶことができるのです。
そのような「興味」は、人間であれば尽きることがないものです。ただ、どのような分野、どのようなカテゴリに対してその感覚が湧いてくるのかということは人によってさまざまなのです。それが人の「特性」というものです。私たちはそれぞれ興味を抱く対象が違います。それぞれ知りたいと考えることが違うのです。そのようにして世界の「専門分野」は分岐していき、さまざまな分野のオーソリティを生み出してきたのです。「興味」こそが世の中が発展する原動力、そしてそれを「学ぶ」ための原動力なのです。