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いくらでも取り戻せる「学ぶ」ということ

学校だけが学ぶ場所ではありません。学生だけが「学んでいい時期」のわけではありません。私たちは生涯いつでも、学ぶことが許されているものなのです。

私たちは学ぶことで新たな可能性と新たな知識を得ることができます。私たちが学ぶのは義務だからではないのです。自ら新しい可能性を身につけたいと、自ら新しい自分に出会いたいと考えるからです。それが私たちの「知への探求」です。私たちは生まれながらにして、ただ生きるだけでは「足りない」種族なのです。私たちが知るということ、考えるということは、すべてが生きるためです。それは「ただ食べて寝る」だけではなく、自分の興味を満たすために、生きている実感を得るために、より深く、より満足に満ちた生活を送るために、私たちは「知りたい」のです。自分が関わることがもっとより良くならないのか、もっと効率的に事が運ぶようにならないのか、もっと興味深く、もっと楽しく、生きていくことはできないのかと、望むのです。

それは「勉強」という体系立てたカタチではないかもしれません。理屈ではなく身体で覚えるということも「学ぶ」ということです。理屈で、頭で覚えるのではなく、実際に実践した感覚で物事を学ぶ、実際に自分で行なってみて、結果を感じ取って、感覚的になにがダメだったのかを学ぶということも大切なのです。私たちは理屈抜きで「日本語」が話せます。理屈抜きで人とコミュニケーションをとることができます。理屈抜きで笑い、理屈抜きで友情を感じ、理屈抜きで人を愛し、愛され、理屈抜きで生きています。体系立てるということは「理屈」です。その理屈がなくても、私たちは日々何かを学んでいるのです。

経験するということは、一種の学びです。取り組んだことのない仕事に取り組むことは私たちにとって新鮮なことです。ただ一時的にそれを経験するだけでも、「これはこうだった」と知る事自体が「学び」なのです。学ぶことで私たちは新たな視野を手にすることができます。新たな視野を手にすることで、本来自分が関わっていることに対して新たな気づきが生じたり、自分の仕事が他仕事に対してどのような影響を与えているのかを知ったりできるのです。

新たな気づきは、それ自体が「学ぶ」ということです。「あの人はこんなものが好きだったのか」ということも学ぶこと、何か情報を得てそれに対して感じるものがあること自体が「気付き」なのです。それは私たちが生きていく中で自然なことです。私たちにとっては何事も学びの連続なのです。肉体的な生理的な反射だけで生きている単細胞生物ではない証として、私たちは経験からさまざまなことを得ることができるのです。それによって生じる発見の数々は、私たちにさまざまなものをもたらします。歳を経て若年層よりもさまざまなことに対して理解が深くなるのは、私たちが気づけるから、覚えることができるから、学ぶことができるからです。その発見の数々は私たちにさまざまな感動をもたらします。

人間でいる限り、私たちは学ぶことをやめないのです。私たちは生まれながらにして学び続けることができる生き物であるということです。それが体系立てられていても、経験でしか得られないことであっても、学ぶということが大切なのです。

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