「学ぶ」ということは能動的なことです。能動的とは自らその物事に向き合うということです。自らその物事を吸収するんだという意欲を持つことです。ただ聞いているだけ、見ているだけでは「知識」としては蓄えられないのです。
それらの知識、それらのノウハウを自分のものにするためには、ただそれらの知識に触れるだけではいけないのです。ただそれらの知識に触れて、ただなぞるだけでは意味がないのです。その物事に対して興味を持ち、自ら探求するという「姿勢」、それは見せかけ上の姿勢ではなく、自分の中から湧いてくる「意欲」が伴わなければ、意味がないのです。自分にとってその知識、そのノウハウは未開のものであるでしょう。未だ見たことがない、聞いたことがない、そのような知識でしょう。それを「知る」ために、それを「自分のものにするため」に、学んでいるのです。
それらの知識を身につけるためには、それらの知識を最初に発見した人と同じような驚きが一番効果的です。それらの知識をはじめて発見した人がどれほど感動してそれらを人類の叡智としてライブラリに書き込んだか、それを考えることです。興味があれば、それが時代を動かす画期的な発見でなかったとしても、ほんの些細な真理のひとつ、大きな真理の片鱗だとしても、その喜びはひとしおであったはずです。新しい知識を得ること、何か新しい発見をすることは、そのような感動を伴うべきなのです。感動とともに得た知識は、一生その人の中で大切なものになります。ただなんとなく知ったということであれば、その程度の知識として、やがて忘れ去られてしまうでしょう。
私たちにとって大切なことは、その知識をいかに「価値あるもの」としてインプットするかということです。「価値のある知識を仕入れている」という実感があれば、そのために費やす時間、そのために頭ひねる時間は決してムダではないはずです。問題なのは「やらされている」、「イヤイヤやっている」ということです。そのようなことではそれらの知識はずっと押し付けられたものになってしまいます。その「嫌だった」という記憶はずっと残ります。
学ぶために必要なモチベーションはそのようにして自ら作り出すしかないのです。学ぶためのモチベーションは自分で見つけるしかないのです。そして、大人になってからはじめる学習は誰にも縛られるものではありません。自分が学びたいから学ぶはずなのです。人に押し付けられるようなものではないのです。学生時代にあった「苦手な科目」、苦手な勉強は、大人になってからでも「苦手だ」という意識が残っているものです。自分ではじめる勉強に対して、そのような印象を自分で作ってしまってはなんの効果もないのです。
自分のモチベーションは自分で作る。誰も与えてくれるものではないということ、自分は自分のために学んでいるということ、そのような「意識」を持つことは「セルフコントロール」です。何のために学んでいるのか、何のために生きているのか、何のため、誰のため、自分はどうして勉強するのか、その先に何があるのか、学生時代には持てなかった「ビジョン」を持つことで、自分をうまくコントロールすることができるのです。