私たちは「楽」をしたいと考えています。できることであれば働きたくないと考えているのではないでしょうか。それは子どもの頃から同じではないでしょうか。出来ることであれば勉強も避けて通りたかったのではないでしょうか。
ですがそんな「楽をしたい」という気持ちと戦って、私たちは毎日を過ごして来ました。本当は誰も勉強なんかしたくないのに、周囲の風潮、「テストでは良い点を取ると偉い」ということや「良い成績を取ると偉い」、「良い成績を取ると褒められる」というようなことに後押しされ、どうにか成長してきたのです。もしかすると、仕事も同じかもしれません。出来れば働きたくない、ずっと楽をして暮らしたい、毎日頑張って働いても、少しずつしか稼げないし、割にあわないと考えている人は山ほどいるのではないでしょうか。それでも私たちは毎日働くのは、「ホンネはそうでも実際に何もしないと生きていけないから」ではないでしょうか。私たちはサボりたいけれど、そうすることによるしっぺ返しを知っているのです。
もしかすると、これがわからなかった子どもの時代には、親が叱ってくれること、学校の先生が叱ってくれることが大切だったのかもしれません。叱られながら、時には褒められながら、そのようにして自分の「希望」とは反することでも、叱咤されながら学ぶということは大切なことだったのかもしれません。「子ども」である時には、そのようにしてでも道を正してもらうことが大切だったのです。自分では何の判断もできなかった頃、自分では「勉強しなければどうなるか」わからなかった頃には、そのような周囲の人、さらには「環境」によって勉強するように後押ししてもらうことが大切だったのです。
ですが「大人」になると違います。成人してからは自分のことは自分で責任を取るべきです。親と同居していたとしても、もう自分のことは自分で面倒を見なければいけません。そこには「売り上げを上げろ」という上司はいたとしても、「勉強しろ」という「先生」はいないのです。私たちはそのような状況、環境で、「自身で何かを学ぼう」と思い立ったのであれば、それを自分の責任で果たす必要があるのです。それがキレイ事は無しにすると、こんなに面倒なことはありません。自分が興味のあることであればまだしも、何かの責任でその勉強を実践しなければいけないのであれば、こんなに面倒なことはないのです。
ただ、「大人」になった私たちはその「サボりたい」という感情を「責任」というもので押し殺すことができるはずです。私たちが感じる「責任」にはさまざまなものがあるでしょう。「自分で始めたのだから」という大人としてのプライド、「このスキルを知っていなければ仕事にならないから」という仕事に対する責任などです。それらの「責任」を完遂しようとすることで、その勉強がすすむのであれば、それは「大人」であることの「意地」を見せるということです。自分でどのようなことに取り組むのかを決め、今後どのように自身が成長していくのかのイメージを持つということです。それがモチベーションにできれば、「大人」として成長できるのではないでしょうか。サボりたい気持ちを「大人」として乗り越えること、それが大切なのです。