私たちの「脳」は目には見えません。自分の脳も、人の脳も、私たちのすべての中枢、私たちの思考を司り、言動や行動を左右する大切な器官です。それは誰のものでも頭蓋の中に大切にしまわれています。
人は生きていく中で「老い」を感じるものです。その「老い」は、私たちにとって避けられないものです。老いることは必然であり、「生きる」ということ自体が「老いる」ということとほぼ同義だといってもいいでしょう。私たちは老いるために生きているようなものです。やがてその老いは肉体的な衰えとともに実感されることになります。私たちは歳を重ねるに連れて肉体の衰えを感じるものなのです。歩くと膝が痛くなるということや、腰が痛くなるということなど、「老い」は私たちに残酷な現実を突きつけるものなのです。
その「老いる」身体の要素の中でも、「脳」が老いることも当然ながらあります。脳が老いることを実感することができるうちはまだいいのです。物忘れが酷くなったなどの「自覚症状」が自分で抱けるのであればまだ挽回が可能です。私たちは長い社会人生活を経てやがて引退します。私たちが過ごす社会生活の中心にあるのはやはり「仕事」です。少しのチャンスも逃さず、貪欲に出世を重ね、仕事に邁進してきたほど、引退後に脳が衰える傾向があります。それは自分自身の「脳」を「働く」ということに対してのみ使ってきたからです。働くために脳をフル回転させた結果、「仕事」以外では脳を休ませているからです。脳を休ませた結果、その脳は他のことを知らない「仕事専用のコンピュータ」のようになってしまっています。楽しいことは知らない、仕事のためにしか回転しない脳です。やがて仕事を終えると、それはもはや不要の旧式コンピュータであるかのように感じられるでしょう。
自分には仕事しかなかった、引退した段階で自分の役割は終わった。そのように考えているのであれば、実際にその先は身体も頭も衰えていくばかりです。大切なことは、何か新しいことに対して興味を持つということです。新しいことに対して興味を持ち、脳を活性化させる手段を講じることです。その「手段」としての「学習」は、とても効率的です。頭を再度「学ぶ」ことに対して用いるということが大切です。何かを覚える、何かを考えるということは脳にとってとても良い影響を与えるのです。
学生時代は遠い昔であると、自分はもう学ぶことはなにもないと、そう考えるのであればそれまでです。本当はもっと学べることがあるはずです。本当はもっと知れることがあるはずです。世の中のすべてを知っているなどということは、あり得ません。自分は、本当はまだまだ未熟で、まだまだ学ぶことがあるはずだということ、もっと知りたい、もっと学びたい、何かを得たい、何かを考えたい、そのような「気持ち」が老いを留めることになるのです。
歳を重ねるのは誰でも同じです。生まれてから今日までの「年齢」は、誰も隠すことができません、生物学上の年齢は変えることができないのです。ですが、気持ちの上で、そして取り組みの上で、若返ることはできます。そして、そのような取り組みが見た目上、身体上の「老い」を乗り越えた「若さ」をもたらすこともあるのです。