さまざまな学問があります。それはさまざまな「原理」を解き明かした人たちが残した、人類の宝としての「知恵」です。どのような学問をどのように学ぶのかは、私たちの自由なのです。
私たちはさまざまな感情によって構成された豊かな精神性を持っています。私たちの持つ精神は、ひとりひとりの行動に反映され、人間ひとりひとりの行動がその世の中を構成するのです。「社会」とは私たちの行動の積み重ねであり、私たちの精神性が反映されたものなのです。嬉しい、楽しい、悲しい、腹立たしい、などさまざまな感情の中に「知りたい」ということも含まれています。世の中に「ニュース」というカタチの情報発信があるのは、それを知りたい私たちがいるからです。世の中でなにが起こっているのかを「知りたい」から、私たちはニュースを見ます。私たちは自分が生きている世界の姿を「情報」というカタチで知る権利があります。「知りたい」という欲求を満たす権利があるのです。
「ある特定の物事を知りたい」ということがあります。「分野」とは世界に存在するあらゆることを細分化したものですが、それぞれの分野に対して異常な興味を示すということは誰にでもあります。それを追求すると、より専門的な知の探求になるのですが、それが「学ぶ」ということに対する第一歩です。現代の世の中では誰でもなんでも「学ぶ」ことができるような土台が整っています。「知りたい」ということを満たすための手段は溢れているのです。その分野は今でもきっと誰かが探求しているものであり、今でもきっと新たな発見が成されているのです。
学校での教育を終えたあと、どのようにして学べばいいのか、どのようにして新たな知識を吸収するようになればいいのか、そのキッカケがわからないという人もいるでしょう。何かを学ばないといけない、何かを始めないといけないと感じていても、その「とっかかり」がわからないという人もたくさんいるでしょう。ですが、それはシンプルなことなのです。
「知りたい」と思えばいいのです。「知りたい」と願えばいいのです。それが学びはじめる動機のすべてです。子どもの頃は用意されたカリキュラムをこなしていただけであったのかもしれません。大人になれば学ぶのかどうするのかは自己責任です。だからこそ、何を学んだらいいのか、どのようにして始めたらいいのかがわからないものです。義務感ではじめてしまうと子どもの頃の「嫌な勉強」と同じではないのかと思うでしょう。そして、それは実際にそうなのです。
私たちが何かを学び始めるということは、新たな可能性を手にするということです。それをどう活かそうと自分の自由です。それをどう活かそうと自分の勝手です。そのような中でただ原動力になるのは「知りたい」という自分の「意志」です。自分が「知りたい」と考えること、「知りたい」と感じた気持ちこそが、学ぶ理由であり、そう感じたときが学び始める最適なタイミングなのです。理屈はいりません。「知りたい」という欲を抱けた瞬間に、その知識の海に飛び込むタイミングなのです。それはいつ起こるのかわかりません。ですが、いつ誰にそれが起こってもいいように、世の中は学べる土壌を用意してくれているのです。