私たちは文字を記すことができます。言葉で、人が理解できるカタチで、それを残すことができます。それらは集積され、集約され、体系立てられて後世の人に受け継がれることになるのです。
私たちの営みはそれ自体が「知」です。知を持って生産し、知を持って世の中にさまざまなものを産み落としているのです。誰かが残した「知」を利用することも当然のようにします。「知識」というものは人類全体の「財産」です。私たちが触れている世界は、ひとりの人間がすべてを把握できないほど深いものです。探求すればするほど、新たな驚きと発見に満ちています。それら雑多に存在する「知」の素材はひとりひとりのオーソリティによって深く探求され、体系立てられた「知」として人に伝播するのです。そしてその「知」は文献やデータなどに残されることによってさらに後世の人に受け継がれます。
人類の「進歩」というのはこの「知の集積」がなければ成し得ないことです。ひとりの人が生涯で探求できる「知」というものは限られています。限られているから、「学ぶ」ことで先人が残した「知」を自分の探求の土台として吸収する必要があるのです。数学の真理、科学の原理などをひとつひとつ自分自身で発見するところからはじめると、「種」として損だからです。私たちが学校で学んだこと、また現在でも文献などから得ている知識というものは、私たちにとっては「先人の教え」というわけです。以前にそれを調べてまとめあげた人がいるから、私たちはそれを「学ぶ」ことができるのです。そして「現代の最先端」に辿りついた時点から、ようやく「新たな発見」を目指すことができるのです。
「知」は競い合うものでもあります。世界中の科学者、学者が新たな発見を目指して日々探求を続けています。それらは専門的過ぎて、一般の我々には「何がすごいのか」もわからないものであったりします。ですが、そのような深いところまで学ばなければ理解できないほど、世の中のあらゆるものが探求されているのです。
私たちには「知りたい」という欲があります。世の中の不思議なこと、世の中が成立している原理を、自分の手で知りたいという探求心があるのです。世界中のあらゆることを丸裸にして、原理を知りたいという欲、より良い世の中にするために新しい技術を開発したいという欲、もっと便利に、人類全体がその叡智の恩恵を授かれるようにしたいという希望があります。それが探求することの原動力です。そして先人が成し得なかったことを達成するために、せめて先人が見ていたものを自分でも見る必要もあるのです。だから「学ぶ」のです。
私たちはひとりひとりが無限の可能性を秘めています。その可能性は私たちを突き動かすエネルギーです。私たちはそれぞれがどのような道に進んでも良いのです。私たちはそれぞれが世界を変えるほどの大発見をすることができるほどの可能性を秘めています。頭の善し悪しは関係なく、自分がどのように生きたいのか、自分がどのような道を歩きたいのか、自分で決めることができるのです。そのために「学ぶ」、「知を知る」ことができるのです。人類の営みはそのようにして受け継がれ、精神的に物質的にもそのようにして発展してきたのです。